「よくそんなに、ぽんぽんと、ショートショートが思い浮かびますね」
最近もっぱらこういう類いの質問を受ける。付け加えて「アイデアの枯渇することは、無いのですか」と。
僕は二日に一度(この二ヶ月ほどにここに載せてきたような)“小説のかけら”を書いているわけだけど、
一つの作品に費やす時間は多くて一時間と少し、短ければ15分から30分ほど、である。
それに、アイデアは決して枯渇しない。何故なら僕は「文章の必然性に基づいて書いているから」である。
上のような疑問を持ってこられてもこちらとしては懸命に数日かけて産み落としているわけではないからして
「そうですね。一つのストーリーをはじめから終わりまで完結させる作業というものは、
友達になれそうもない人と5分間世間話をするよりも簡単ですよ。一度君もトライしてみたらいい」と、
普段のテンションより幾分トーンを落として、伝える事に決めている。
「一度君もトライしてみたらいい」という箇所が非常に重要なんじゃないかと、僕は考えている。
これがもし「友達になれそうも無い人と5分間世間話をするよりも簡単ですよ」のみで終わってしまったら、質問者は追い討ちをかけるようにまた次の質問をしてくるんじゃないかと僕は身構えてしまうわけで、会話の最後を“あなたには少し難しいかもしれないけれど”と嫌味的な色を付けて「一度君もトライしてみたらいい」と手渡す事で、こちらの言葉がなんだかファンタスティックな色調を醸し出すのではないだろうか、と思う。
ショートショートを頭からケツまで書き終える事は僕にとって、本当に容易い作業である。
また、作品の本数が増えようが関係は無い。
それは、ジョギングで100kcalを消費するより簡単だ。
今回は質問の多い「ショートショートの書き方講座」(のようなもの)の、
その手ほどきを僕が直々にあなたに伝えたいと、このように考えている次第である。
そういう意味では質問者が猫だとしたら、今回の投稿はマタタビであると言えるだろう。
(そしたら僕はさしずめ“マタタビ製造業者”か?)
では、早速、書く。
まずプロット(基本設定や趣向、脚色)などは一切考えない。
人物設定、場所、時間、という小説には必要不可欠なすべてを、考えてはいけない。
(この点は、素人が「もう、書けないんです、なあーんにも思いつきませーん」という負のスパイラルあるいはアイデア不足に陥ってしまう大きなポイントだ)
例えあなたの頭の中に“なんらかのストーリー的なもの”が浮かんだとしても最初の一文を書き始めるまでは、それを視野に入れてはならない。
理由は至極単純である。
「その後のストーリー展開を“自分で”考えなければならなくなってしまうから」だ。
「今回の小説はこのように書こうかしら」みたいな“流れ”が見えたとして、その“流れ自体”がある事によってストーリーは奇抜性を欠いてしまう。
何よりも、常識からの脱却が必要なのだ。
これからショートショートを書こうとしている方は決して常識に囚われてはいけない。
不安な方は手のひらに「私は既成概念を捨て去る」と書いて、口に百回放り込んで飲み干せばいい。
(そうすれば恐らく翌日にはあなたの両の手には、冷たい手錠がかけられているだろうが)
例えば、左からピンクの桃が流れてきたら、その桃は恐らく右側に向かって進んでいくんじゃないか、と予測される。
それではいけない。それでは読者に先を読まれてしまう。
逆を返せば、優れた超短編小説は、予測されにくいものなのだ。
そもそも文章芸術は、書き手よりも読み手側の方が先を見越しやすいものである。
(この点で文章という名の芸術作品は、映画などの時間的芸術作品とは完全に区別して考えなければならないだろう)
では、書く時に、どのように書き進めていけばいいのか。
という疑問が、あなたの頭の中を駆け巡っている事と思う。
答えとしては
「文章は、最初の一文が何よりも重要である。
最初の一文さえうまく書ければ、
後の文章は必然的に、しごく自然に湧き出てくる」と僕は考える。
(湧き出てきたら、それを文字に起こせばいい。コピー用紙から千羽鶴を折るよりよほど簡単な作業だ)
短編小説とは、文章自体が文章を書き連ねていくもの、と言えるだろう。
「最初の一文さえ書く事が出来れば(文は文を補填する性質があるのだから)
次に次にと続いていく。そして蓄積された文章を振り返った時にそこには、男女が愛し合っていたり、あるいは野花が咲き誇っていたり、というようなストーリーらしきものが浮かび上がる。
そして最終的には、落ち着くべき所に、落ち着く」わけである。
この点において文章とは、前後の関係を抜いては成立し得ない芸術であるからして(詩や散文などを除いて)、
一文があり、またそれに続く一文があり、またそれを受けた一文が必然的に連鎖していくものである。
言語の伝達手段の一つとして使われる符号を、いくつかの法則に乗っ取り、集積させたもの。それが文章というものである。
(これは僕がこの場を借りて書くまでも無く、そういうものである、という人類の共通認識の元にここに記す)
「それでは、そもそもまず、根本的な第一文は、どのように書けばいいのか」と疑問に思うだろう。
「最初の一文さえ書ければ、後に続き結果、短編が完成する、と言うのであれば」と。
申し訳ない。
正直な所、こればかりは、僕があなたに教えられる事は、何も無い。
ここまで目を点にして必死に読み進めてくださった方には、土下座をして謝らなければならないが、本当に何も思いつかない。
こういった言葉がこの場に置いて適切かどうかは僕には分からないけれど、最初の一文に関しては、もはや「閃き」とでも表すしか無い。
あるいは「閃きに近いもの、なんだか見えたような、そんな気がする」であっても、問題ない。
ただし、一つ助言のようなものがあるとすればそれは「法則性を身につければいいんじゃないか」ということになる。
では、法則性を身につけるためにはどうしたらいいか?
それは「(あなたの思う)優れた作家の本を読めばいい」ということになる。
あなたと馬が合う作家の良書を読むことによって先に述べた光にも色があることが分かり、形が分かり、終いには(ニュートリノの事は今は抜きにして)それを掴めるようにさえ、なる。
そして、本当に一瞬であるその閃光を、目を見開いて捉える事が出来たなら、あなたは恐らく短編の名手となり得ることだろう。
さてさて、それでは一度、君もトライしてみたらいい。
幸運を祈る。
written by ibukijohn.
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