2012年10月14日日曜日

弟がauのiPhone5へMNP(2)

(今回は、弟がauのiPhone5へMNP(1)の続編です)


一緒に住んでいる4つ下の弟がiPhone5に変えてから、
かれこれ三週間ほどが経過した。

ここでも以前記したが、彼の携帯はそれまではドコモのガラケーだった。

そのため、WEBの閲覧やチャット機能が無いこと、その他カメラの性能の著しい劣化からGmailへのアクセス不可など、彼の小さな頭を悩ますいわゆる懸念材料が、そのスペースを占有していたわけだ。


しかしiPhone5を手にしてからというもの彼は、変わった。

ちょっとしたことでも(兄貴である僕に対して)メールなどを送ってくるようになった。

「ただいま」もメール。

「今日ご飯、食べる?」もメール。

「おやすみ」もメール。


メール メール メール。

オール、メールである。


しかもiPhoneのメール機能はメッセージというアプリで行うことが可能で、二人のやり取りをチャット形式に会話調に閲覧出来るという優れものである。

そのため、彼も(もちろんぼくも)意識として「メールをやっている」という概念よりも「チャットをやってるんだ」というような
気軽さがあり、ついつい送ってしまう、わけである。

それにしても彼はiPhoneに慣れるのが非常に早くてこちらもびっくりした。(もともと彼は何にでも慣れるのが早かった)

その中でも僕が目を見張ったのはやはり、フリック入力の早さである。
(フリック入力とは日本語を日本独自の配列に並べた文字入力の方法の一つだが、現代の日本ではiPhoneをはじめとするスマートフォンにはじめから搭載されている機能である。)

誰かと、コミュニケーションを計る上でスピードは大切な要素の一つだ。
その内容はともかくとして、スピードがあれば大抵のことは済むという側面は否めない。


それが早い。

うーむ、ますますこれからが楽しみな弟である。

まっ、なんでも早ければいいってものじゃないけれど。

2012年10月7日日曜日

うどんフィロソフィー


深い深い悲しみの先に、一縷の光。

か細ければか細いほどに力強く輝くものがある。


無音の中で鳴り響く風鈴の音。
海の上に浮かぶ小さな一隻の舟。
無機質な会話に咲く一輪の花。

それらすべてが希少性に裏付けられた美しさである。


人が、儚さの中に美しさを見出すのであれば、ぼくらはぼくらの人生にそれを見出すことは出来ないだろうか。

得てして主観とは揺れ動くもの、定位置には定まらないものである。

その上でそれを理解し、いたわり、見つめ直す。

そうした人間性を、
それぞれが主体性をもって臨めば、明日は変わる。

明日はきっと晴れてくる。


それで明日が見えなければ、
そもそも我々はどうして生きているのだろうか。

2012年土浦花火大会を終えて

2012年土浦市花火大会会場付近にて@Photo by ibukijohn.

2012年10月6日
午後2時半あたりから大量の雨が降った。

友人たちは「集中豪雨だ」などと言っていたが、ぼくはただの通り雨だと思っていた。

我々はその時、上野から北に伸びる常磐線を水戸に向かって一時間ばかり揺られ、
ちょうど土浦駅に着いたところだった。
(土浦駅ホームから見える、無機質なブロックのように積まれた
コンテナに書いてある文字が“JRF”なのか“JRP”なのか判読出来ないほどだった)


「なんて日だ!」


友人は天に向かって叫んだ。

ぼくは虎視眈々と雲の切れ間を見つめて、ホームで煙草を吹かしながら
土浦市の公式HPに「本日雨天でも決行します」という赤字を左目で流し読んだ。


結果はご存知の通り(ぼくの念が通じたのか)奇跡的に土浦市近辺は晴れ、虹が出た。

それも見事な虹だった。

秋の空という広大なキャンパスに、先に色彩を添えたのは花火ではなく虹だった。


その後シャトルバスの見事なピストン活動と、
人海戦術的JR社員および警察官の指示により、
我々はなんなく会場に滑り込み、
短く刈り込まれ雨で光るボーボー草の上にブルーシートを重ね、
観覧する位置を確保した。

土浦の花火が美しかったのはここに書くまでもないことで、
比較的空気の流れもよく、寒すぎもせず(また暑すぎもせず)、
ぼくはキリンビールでのどを潤し、熱々の広島焼きを食べ、
頂いたバランタイン(ウィスキー)でしめた。


実は、広島焼きを買うために並んでいる時、ぼくは一人だった。

その広島焼きの屋台は40才くらいのいそいそと働いている兄ちゃんが
たったの一人で切り盛りしていて、30人ほどの列が出来ていた。
(あるいはあまりにも美味くて、リピーターがついているのかもしれない。

ぼくの後ろにはギャルとギャル男がいちゃついていて、
前には明らかに太り過ぎの10代の女性(しかもこの女性は先に書いたシャトルバスを降りて、すぐにすれ違った女性だったので記憶にあった)と、
真面目そうなその彼氏風の男が、なんだか楽しげにぺちゃくちゃとおしゃべりしていた。

そんな二組の間にサンドイッチ状態にされたぼくは、
なんだかひどく寂しくなってしまった。
その時のぼくを誰かが見ていたら、きっと少しばかし同情してくれたに違いない。

さてさてやっとこさ帰宅もしたし、飲み直すとするか。





〜番外編〜

同情人「そんなに落ち込まんときいや」

ぼく 「 …」

同情人「顔色悪いぞ、あんた。大丈夫か。
    でも一人じゃないねんからもんだいないて〜」

ぼく 「ええ、それは分かってはいるんだけどね」

同情人「まずはこいつをきゅーっと飲んでみい」

(手渡されたコップに入った何らかの液体を迷わず飲むぼく)

ぼく 「うわぁ、な、なんですかこれは」

同情人「カーッとなるやろ、答えはあなたの胸にあんねんで。ほなっ」

(逃げるように去って行く同情人。改め変質者)

ぼく 「あー、なんなんだあいつは。気持ち悪いやつだったな。
    しかしあいつのおかげで遠い昔に書いたあの詩を思い出したや」



【Hantamaの頭の中は】より、
 詩「答えはあなたの胸にある」をどうぞ。http://johnyorizo.exblog.jp/485694/

2012年10月6日土曜日

2012年土浦花火大会に向かう昼飯

花火っていう生き物はねえ、
もう何もかも晴れやかにしてくれるんですわねえ。

実際的にはねえただの火花ですがねえ、
人が見ればねえそれぞれの心にある種の種を
植え付けられるみたいなものでねえ、
離れんのですわ。

時間が経てばどんどん大きくなってきよるわねえ。
そんでねえ、花火を見てから時間が経てばたつほどねえ
育ってきよるんですわねえ。

生き物なんですねえ。

まっさにそれこそが
花火の本当の生命力やと思うんやけどねえ。


ねえ?





2012年10月2日火曜日

「2012年のビンゴ・ピンボール:第1話」



ぼくが職場の先輩K氏に連れられて、埼玉県はふじみ野にあるそのゲームセンター
「AmusementField BAYON」を訪れたのは2012年9月の終わり頃である。

季節はちょうど馬鹿みたいに暑い夏が終わりを告げ、
秋の顔面が我が物顔で我々のすぐそばにあった。

夏が去って行く時には大抵巨大な台風が日本列島に上陸するけれど、
ぼくと先輩がこのゲームセンターに行くことになったのも
ある種こうした必然性の中にあったのかもしれないと今となっては感慨に耽ってしまう。


***


この物語は2012年の9月に始まり、終わりは現時点ではまだ見えていない。

かつて世界のゲーム王と呼ばれたロシアの大富豪シャカナビア・ペトロフの言葉が
これから始まる物語を語る上ではふさわしいだろう。

「ゲームには開始という概念はあるが、終わりは無い。
 終焉とは形而学上の概念であり、それは各プレーヤーにゆだねられている。
 さあ君もそのダイスを転がすといい。ダイスは自らのあり方を教えてくれるから。」
〜「ゲームの偶発生と必然性」(訳:多田歩)〜

ぼくはこの言葉を文化社から出版されている一冊の単行本の中で見つけた。
そしてそっと赤い線を引いたことを覚えている。
(ぼくはたまにこうして線を引く癖がある)

どこかで聴いたことがあるような気もしたし、
あるいは全く始めて触れた言葉だったのかもしれない。

核心を突いているようで、何かしら秘めているものもある。
なぜ線を引いたのかは分からない。

だけど、この言葉の羅列の中の何かにぼくは共鳴したのだった。
恐らくはある種の共時性のようなものじゃないかと思う。


***

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