2011年3月21日月曜日

お風呂に関しての考察




















国難とも言えるこの非常事態において、お風呂に関する内容の文章をしたためれば、
「この人はなんて不謹慎なのだろう。もっと他に書くべきことがあるのではないか」
と非難される事は甚だ承知の上で、つらつらと書いていく。脇目は振らない。

僕はどちらかと言えば『お風呂につかる』という行為を
(そのような組織的な分別があれば、の話だが)肯定する派閥に入るだろう。

普段はシャワーだけでササッと片付けてしまうのをグッと堪えて、
一週間に一度くらいの頻度でお風呂のお湯を半分程まで張って、全くの無音の中、
一時間程じっくりと浸かっている。

それこそ、即席のきゅうりの塩漬けのように。
(余談だけど、きゅうりの塩漬けってなんであれだけ飽きがこないんでしょうね?)

その際お湯の中で体を動かす事は基本的にしない。
ただ黙々と、比較的ぬるま湯の中に、ただ居る。
誰かと一緒に風呂に入るわけではない。
だから基本的に僕はある種の仮定的なもう一人の自分と対話をすることになる。

話の内容は実にくだらない事だ。
ここに書くまでもないことだが、記しておけば後ほど自身の27歳時点での備忘録として機能する事は確かだし、僕の事をより深く知りたいという稀有な人が居たとしたら、見えないその友人の為にも書くべきであろう。

例えば「この風呂をあがったあとで、何を食べるか」ということ。
それから「何を飲むか」ということ。(しかしあるいは生きていく上では切実な問題でもある)
または「会社で起こったなんらかの出来事に関して」「人との関わりや、今後の展望」
あるいは「僕の人生の今は何小節目くらいだろう(吉田拓郎のうた)」と、いうことなどetc...

まぁ端的に言い切ってしまえば、それぞれが馬鹿に出来ないことであり、
そういった「この時代に生きているからこそ、頭を悩ませる数々の事象」は、
すべて愛おしいことなのだ。それは、分かっては、いる。

しかしながらそれは反面、時として実に煩雑であり、逃げ出してしまいたくもなる。

仕事に行って帰ってきて眠り、また次の日に起きて、また仕事に行って、そして眠る。
ここで「そうした日常で流れる時間とは、全く異なる時間の流れを、
我々現代人は意図的意識的に創り出さなくてはならないのではないか。」という仮説が生じる。

あるいは「情報という名の概念的要素」に比重が置かれ「目で見える物理的なもの」が軽んじられる傾向にある現代社会において、TwitterのTimeLineさながら次から次に押し出されていくのであれば、僕達はある時その場で立ち止まって、流れていく情報を俯瞰的に眺め、本当に必要なものだけを取捨選択する。

そうした作業が、またある意味では大きな価値を生むのではないだろうか。


そしてそれを行う上で「最も適した場所」というのは、実はお風呂に浸かっている時なのではないだろうか、と皆さんに提示させて頂き、今回は終わりにしたいと思う。
「私は眠る前の時間、そうして熟考しているんだけど」「俺は歩いている時なんだがな」という声が聞こえてくるけれど、それはもう、各々にお任せするとして。








Photo by YORIZO.

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