2011年3月20日日曜日

ブログを始めるということ

ここに、自身のブログを開設する。

これは、その、宣誓的洗礼の儀式であるからして
出来る限りド派手に、目立つ様に行うのが筋だと思う。

しかしどうやら僕はそうした祭り的な作業を控えなければならないようだ。

理由は主に、さきの東北地方太平洋沖地震の被災者方の安否が未だに不明であることや、
それを見守る日本国民全体が(あるいは世界中の人々が)粛々と日々を送っているため、といった問題に起因する。

一方で「オデッセイの夜明け」の行方などなど、『地球上の同一生命体』という観点から考えなければならない問題が山積みされている中で、僕は(どこかで後ろ指をさされて居るんじゃないかなぁ、と思いながらも)粛々とこうしてBlogを立ち上げている。


それはそれで、ある一定の評価を与えられてもいいのではないか、と思ったりもする。


例えば今回の地震、そして揺れる中東の社会情勢など、他にも見過ごせない数々の問題があるにせよ、まずはそうした出来事に、僕達は一つ一つ関心を示さなければならないなと感じている。理解しようと努めなければ、何も始まらないんじゃないだろうか。

しかし情報過多のために、不感症になってはいけない。
そして僕らは(これは先日にも書いたが)取捨選択する能力を養わなければいけない。
埋没してしまう前に。

選択する能力を身につける為に、目を養わなければいけない。Look.
その上で、何が正しいかを自身で考えなければならない。Thinking.
こればっかりは、人に聞いてそれをそのまま鵜呑みにしてはいけない。

そうして、考える為に、書かなくてはいけない。
書いてそれを(これは僕が好んで使う表現の一つだが)
一定の距離を置いて俯瞰しなければならない。

それは鏡に映った自身の姿を眺める行為ではない。

高い所に立ってあるいは浮いて、自身の頭の先から爪先までを見る。
そうした神の視点的俯瞰のことである。

「知る」「選ぶ」「書いて考える」といった過程を経て、今度は自身の言葉で、発信する。
「発信」することで、また再考する。


Blogは本を出版するよりもHPを開設するよりも実に簡単且つ即時的であり、
特に技術がなくても自身の考えを人に伝える事ことが出来る。

更に即時的でありながらTwitterのTimeLineのような流動性は無く、
あるのは自身の記事だけである。

つまりそこにあるものは、その人自身の姿(エゴ)だ。


そういった意味においては、自問自答のツールとして
あるいは備忘録としても当然機能することは間違いない。

それよりも何よりも、書き続けることが大切だ。
と、忘れないようにここにしっかりと書き記しておくとするか。

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